ここでは様々な映画を独断と偏見でレビューしていきます。目指せ10000本!!
Disney's クリスマスキャロル ロバート・ゼメキス監督
2009年 アメリカ
評価 C
長かったので分割。
また、インタラクティブメディアは、
違う面でも作品として価値のあるものを埋もれさせていきます。
見下すような言い方で不本意ですが、
溢れる情報はその大半が浅薄なものだからです。
浅薄と言うのは、ものすごく極論すると、
「二元論」みたいなもの。
「あの映画泣けたよねー」「あの映画面白かったよねー」
などの、抽象化された情報が占める割合が増え、
そしてそれに影響される人も増えてゆきます。
映画や芸術を鑑賞するに当たり、
気づきづらい大切な側面があります。
それは「的確な批評」や、「面白い批評」が、
「クソなメディア」を面白くすることです。
例えばエガちゃんが小話のように映画批評をしてったとき。
「あの映画はこのシーンが○○で××だから絶対に観るな!」って言っても、
その批評が面白ければ半ば怖いものみたさで観てしまいます。
そして、その映画を観て「あーやっぱクソ映画だった」と思っても、
エガちゃんの批評していた部分については、エガちゃんと自分の対話が出来るわけです。
「あの人はこういっていたけど、俺ならああしたな」とか。
これって、創造におけるプロセスの中で、物凄く大切なんですよね。
そして、審美眼を養う意味でも、本当に大切な部分。
この部分が失われていく可能性が高いのが、
インタラクティブメディアのかなり大きなデメリットだと考えています。
最近はアクセス数が増え、
このホームページ批評をどんな方が見てくれているのか想像もつきません。
ただ、映画だけを観ようとしないでください。
映画は独立して映画であるわけではなく、
「文化の中の」「メディアの中の」「記録資料の中の」など、
見方によって様々な意味を持ちます。
「この映画は良かった」で終わるのは論外ですが、
「このシーンは良かった」だけでも終わらないでください。
急速に変化するメディアの中で、
映画がどのような位置にあるのかも考えるべきです。
そのシーンが現代ないし当時のメディア界の中で、
どのような意味を持つのかも大切なんです。
表現する内容は今も昔も普遍ではないんです。
「今」表現すると良いものがあるはずです。
過去の芸術家も、自分たちより前の芸術の立ち位置を否定して、
現在までたどり着きました。
もっと多角的で俯瞰した視点を持つことが、
成功するには大切だと思います。
文豪チャールズ・ディケンズの古典的名作を、「ポーラー・エクスプレス」「ベオウルフ/呪われし勇者」のロバート・ゼメキス監督が、パフォーマンス・キャプチャーと3D技術を駆使して完全映画化したヒューマン・ファンタジー。金の亡者スクルージが3人のクリスマスの霊に連れられて体験する不思議な時空の旅を通じてこれまでの人生を見つめ直していく姿をかつてない映像世界によって描き出す。主演を務めるジム・キャリーはスクルージの他、3人のクリスマスの霊など全7役をこなしている。
19世紀半ばのロンドン。金貸業を営むスクルージは、金がすべての嫌われ者。クリスマス・イヴだというのに貧しい人への寄付をはねつけ、“貧乏人が死んでも構わない。余計な人口が減るだけだ”と悪態をつく始末。そんな彼の前に、7年前に死んだ共同経営者マーレイの亡霊が現われる。彼は怯えるスクルージに対し未来への警告を発し、その運命を変えるために3人の霊がやって来ると言い残して姿を消す。やがて一人目の霊が現われ、スクルージを過去のクリスマスの日々へと連れ出す。そこで彼が目にしたのは、少年から青年時代にかけての、夢を抱き優しい心を持っていたスクルージ自身の姿だったのだが…。
はい、ディズニーのクリスマス・キャロル。
あまり館数が多くないですが、3D上映をしているところで観てください。
内容的や演出には特筆する面はありません。
分かりやすく、誰もがそれなりに受け入れられる話です。
クリスマスというシーズンに最適の、当たり障りのない映画といえるでしょう。
カップルでも友達でも家族でも楽しめます。
「フォレスト・ガンプ」のロバート・ゼメキスが監督だけあって、
やはりツボを心得た映画にはなっていますね。
何が注目かというと、ここでは3Dです。
映画は今まで2D、まぁ平面に映った映像を2時間くらい流して、
「映画」としてきたわけですが、
3Dの映画が最近増えてきています。
この3Dっちゅーのが、すごいです。
とりあえず体験する価値はアリですね。
この先を展開するのにあたり、まず言っておきます。
僕が好きな映画は主にカンヌ作品です。
ダルデンヌ最高。あとはドグマ95のシリーズとかも。
いわゆる「自主映画」型の作品の方が好きです。それを踏まえて以下をどうぞ。
小難しいので、スルーもOKさ。
3Dの作品は、もはや「純文学」的な要素は最初から放棄しているわけです。
いわゆる大衆に向けた映画と宣言してるんですね。
ここから問題にしたいのは、自主映画について。
ハリウッドの情勢や、技術力などの向上から推測される映画の将来は、
まぁ大体みんな同じです。
厳しい状況に立たされながら、ある程度はその価値を維持していくでしょう。
但し映画を「大衆エンターテイメント」と「純文学的作品」の2種に大雑把に分けた場合、
文化政策の転回などがない限りは「大衆」の割合が増えていくと思います。
つまり自主映画は更に追い込まれる、と考えています。
今映画を自主的に作っている人は少なくありません。
ただそれが「自分が表現したいもの」だけで構成されている場合、結局オナニーで終わります。
要は観客に伝わりません。
別の方面で考えると、公開オナニーで心を動かすのが「芸術」です。
最近は映像芸術が非常に盛り上がっています。
ここで大事な質問。
自主映画を作る人々は、「自分が表現したいもの」を作るとき、
なぜ「映画」という体裁をとるのでしょうか。
この問いに答えられなければ、「映画」で表現する必要はないとも考えます。
今は「映像芸術」が自分の表現したいものを表現するフィールドで、
「映画」はお金払ってもらって楽しませるもの。
という構図がどんどん顕著になってきています。
このとき、「自主映画」の立ち位置はどのようになるのか。
敢えて映像芸術ではなく映画で作る理由がなければ、
もう誰も見向きもしません。
力のないコミュニティでゴチャゴチャやっていては、
大きなお金や影響を生み出せないです。
だからこそ、「映像芸術」でなく「映画」をやっている理由が確実に必要です。
そのためにまずは「映画を構成する要素」を考えるのも一つの手段ではないでしょうか。
これが恐らく最近多いミニマリズムの正体の一つです。
多くの自主映画製作者は「クリスマス・キャロル」を見下したり、認めなかったりするでしょう。
それでもクリスマス・キャロルは「大衆の心を動かす」という1点においては、
計算しつくされた作品です。
画の配置、躍動感、話題性、どれをとっても「楽しませる」映画のこれからを思わせます。
そういう視点で一度映画を考えてみる作業も必要だと思い、
今回はこの作品にCをつけます。
★こんな人に
自主映画製作者
現在「表現したいもの」を成立させるフィールドは確実に映像芸術の方へ移行し、
映画は「楽しませるもの」になってきています。
そんな中で何故あなたは「映画」で表現していくのでしょうか。
★映画のお供
素直にたのしむ心!