ここでは様々な映画を独断と偏見でレビューしていきます。目指せ10000本!!
ラルジャン ロベール・ブレッソン監督
1983年 フランス/スイス
評価 A+
ただいま美術史を勉強中。
非常に良い本を図書館で見つけた。
本は心の旅路。
芸術家の性格や生い立ちを知り、
その人の作品が美術史のコンテキストの中でどのような意味を持つのかを考える。
楽しい。
彫刻とか建築物っていうのは、鑑賞するのがなかなか難しい。
「中心」がどこにあるのかが分かりづらいからだ。
いわゆるアクシス・ムンディとかいうやつが、三次元で提示される。
彫刻や陶器などの場合はなんとなく分かるけども、
建築はでかすぎて、いまだに分からない。
映画にはそれはあるのか?
インスタレーションには?
最近の僕の問いは、「どこからが芸術なのか」です。
映画と映像芸術の境目もいまだ分かりません。
どこまでミニマルにしても大丈夫なのか。
映画で言えば、「アンナ・マグダレーナ・バッハの日記」や、
「ジェリー」、「ドッグヴィル」は映画だけど、
「ドッグ・スター・マン」は映画じゃないと個人的には思ってる。
様々な最小の限界点を見つけたとき、
その本質だけが残るという考えのもとで探っているけど、
その前提自体が間違っているのかな。
でもまぁ、価値観が変化してきたように(僕も最初は「ショーシャンク」が最高の映画だと思ってた)、
いずれアカデミックな考え方も変わるのでしょうな。
ラルジャン
小遣いに不足したブルジョワ少年が親に無心して断られ、借金のある友人に弁解に行くが、友人は彼に偽札を使ってお釣りをくれればいいと唆す。彼らはその札を写真店で使い、まんまと企ては成功。偽札をつかまされた店の主人夫婦は、これを燃料店への支払いに使う。結果、その従業員イヴォンが気付かず食堂で使って告発された。彼は写真店を訴えるが、店員ルシアンの偽証で責任を負わされ失職する。ルシアンは商品の値札を貼り替えて、差額をかすめ取っていたが、見つかって解雇される。だが、その掌中には店の合鍵が。一方、イヴォンは知人の強盗の運び屋をし、未然に逮捕され三年の実刑を受ける。その間に愛娘が病死、妻の心は彼を離れる。それを中傷した同房の者を殴ろうとしてやめるイヴォン。独房送りで毎夜支給される睡眠薬を溜め、自殺を図るが未遂に終わる。やがて、写真店を荒し逃げ回っていたルシアンが入所してきて、赦しを乞い、見返りに脱獄の誘いをするが、イヴォンはこれに乗らず、おとなしく刑期を終える。出所して泊まった安ホテル。ここで彼は主人夫妻を惨殺し、はした金を奪って逃走。ある村の裕福な農家の家事一切を引き受ける中年の女の世話になる。夫を失い、車椅子の息子と老いた元ピアノ教師の父と、姉夫婦一家と暮らしている健気な彼女は、事情を知ってもひたすら彼をいつくしみ、彼との語らいの時を持つが……。たぶんに『罪と罰』への傾斜を感じさせる内容で、現代の神、交換の魔法--金(ラルジャン)の真意を探る。
この映画はすごいです。
省略する部分の飛ばし方が半端じゃないです。
映画はせいぜい2時間か長くても3時間の体験じゃない?
例えばその中で人の一生を描いたり、
もしくは悲劇的な一日だけを描いたり、
逆にたった10分のことを2時間かけることも出来る。
これは映画にとってなかなか大事なサブジェクトであって、
人の一生を描く場合は特にどう省略していくかが映画の良し悪しを決めるといってもいい。
あと、映画における省略というのは、
「そこであってであろう出来事」を想像させることでもあるわけです。
ラルジャンで描かれるのは数年のスパンだけど、
これほど上手く省略を使っている映画もないでしょう。
僕の好きなダルデンヌ兄弟が尊敬していたそうですが、
ブレッソンとの共通点はその「眼差し」にあるように感じます。
「眼差し」というのは、観客が見る主人公です。
観客と主人公の距離ですかね。
眼差しが近いと、主人公に感情移入していくんですね。
最近のよくある映画というのは、
この「眼差し」を利用して感動させるパターンが多いです。
つまりそれは過剰な演出になって、安っぽくなっていきます。
ダルデンヌ、というかブレッソンの「眼差し」は徹底して冷たいんですな。
これが非常に僕好みでした。
崇高な映画を感じさせます。
恐らく計算してのことでしょうが、
僕が驚いた(自分なら違う演出をした)部分がありました。
それは終盤、コーヒーとワインの部分です。
事情を理解し、受け入れている婆さんがイヴォンを泊めている納屋にコーヒーを運ぶシーン。
殺人鬼を泊めることに反対しているオッサンにどつかれます。
婆さんはどつかれながらも、コーヒーを少しだけこぼすだけで、
何とか納屋に運ぶのです。
次のシーン。
グラスをピアノに置きながら、演奏しているオッサン。
すると鍵盤の揺れからグラスが落ち、割れてワインが床に散る。
この「中に入った液体」をこぼしてしまうかどうかというのは、
普通とても大切にする比喩です。
この場合であれば、コーヒーをぎりぎりこぼさなかったことから、
その温かみが殺人鬼に伝わり、そして心は解けてゆくはずなんです。
だからこそ「あぁ、あのとき婆さんはコーヒーを何とか運べてよかったなあ・・・」
となるわけです。
ワイングラスは完全に割れたことから、
オッサンと殺人鬼の心は絶対に分かり合えないです。
この比喩の流れからいくと、少なくとも僕が今まで観た映画では、
殺人鬼はオッサンは殺すが婆さんは殺せないことになります。
しかし、この映画は違った。
僕のその考えを利用した、もっと悪意ある表現をしてきたんです。
これには放心状態でした。
洗濯のシーンなんて、深い緑の中で白い布を干すという、
明らかにコーヒーの伏線を活用したシーンだったのに、
完璧にしてやられました。
多分観れば分かります。
恐ろしい映画でした。
ちなみに前半と後半で撮影監督が違うようですが、
前半の人の方が良いです。
ものすごいたくさんドアを多用することで、
場所の移りをスムーズにしています。
前半の部分は群像劇に近いので、
その手腕が発揮されたんでしょう。
★こんな人に
金というものが持つ意味を知りたい人
シネフィル
★映画のお供
札束